入所者の状況悪化と帰宅願望
入所者が増え、居室も満床となり、「まだ入所の順番は来ないのでしょうか?」といった問い合わせが増えてきました。そんななか、待機者の中でTさん(86歳/要介護3)の入所が決まりました。
Tさんは、入所後の数日間、夜も眠れず頻繁に起きては施設内を歩き回っていました。娘さんは「木造の平屋で目の前に畑があり、静かで落ち着ける場所なので、ぜひここで楽しく暮らしてほしい」と期待していました。
しかし、3ヵ月が経過した頃、Tさんの様子に変化が見え始めました。「家に帰りたい」と毎日施設内を歩き回り、足元がふらついて転倒の危険性が高まってきたのです。ご家族様とも相談を重ねてきましたが、心配していたことがついに起こってしまいました。4月12日、テレビの前で転倒し、眼鏡のレンズが割れて目の周囲に軽い傷ができました。ご家族様と相談の上、骨折予防のため常時クッションパンツを着用してもらうことになりましたが、その後も転倒が続きました。
4月17日にはモップがけの最中に再度転倒し、4月21日には家族対応で精神科を受診し、処方薬と服薬時間が変更されました。その後も、倒れては額にたんこぶを作り、唇を切るなどの怪我を繰り返しました。ご家族様は、専門のスタッフに見守られながら安全に暮らせることを期待していたため、非常に落胆した様子でした。さらには、ご家族様が職員からの不適切な言動を気にされるようにもなり、不信感を募らせていきました。
そうなると悪循環は続きます。ご家族様は相談員とも徐々に話がかみ合わなくなり、面会の回数が減りました。病院受診介助を施設で行うという提案にも娘は「私が連れていきますからいいです」と言い、施設の職員が担当医と話す機会がなくなってしまいました。
職員間での意見の対立
職員の意見は二つに分かれていきました。一方では、「このままでは職員1人が付きっきりにならざるを得ないため、記録や事務作業ができない。夜勤者もセンサーを使って転倒防止に努めているが、対応が難しいことがある。夜勤者の休憩も取れず、退所してもらうべきだ」との主張がありました。
もう一方では、「退所すれば職員の負担は軽くなるが、Tさんはまた新しい環境に慣れず混乱するだろう。家族も他の施設の目途が立たず、ここで看てもらいたいと言っているため、早く慣れてもらって継続する方が良い」との意見がありました。
家に帰りたいという本人の声、施設で過ごして欲しいと願うご家族様の意向、大きな負担が他の利用者様に迷惑がかかることを懸念する職員の声。どの意見も一理あります。私はその調整のために何度となく状況を整理しなおし、議論し、本当に苦悩しました。
状況の改善とご家族様への協力依頼
悩んだ末、当面はお薬の調整をしてもらって様子を見て、そのあとで入院するか退所・転所するかをご家族様にご判断いただくこととしました。
もちろん、次の行き先が決まるまでは、このまま入所していていただけるよう職員一同支えぬくという決意をお伝えし、ご家族様の了承をいただきました。また、本人が落ち着くまでの間、1週間に一度、面会や外出をしてもらえるよう協力のお願いをしたところ、うなづいてくれました。
転所
それから数日後。
幸いにも、薬の調整の効果が出てきたようで、Tさんの様子に変化が見えてきました。夜は、8時間寝てくれて話もたくさんするようになり、歩行もしっかりしてきたことで転倒する危険も少なくなってきました。
しかし結局、その数か月後、TさんのBPSD(行動・心理症状)はさらに激しくなり、一人で外出してしまうことも増えました。その後、事前に申し込んでいた老人保健施設への入所が決まり、娘さんの近くの施設に転所となりました。
結果的に、ご家族様からは不信感を払拭しきれなかったのは残念でしたが、職員たちは、そんななかでも最後まで精一杯やり切ってくれたことを、本当に誇らしく思います。退所の際、去り行くTさんのご多幸を願いつつも、肩の荷が下りたという安堵の気持ちでいっぱいだったことはいうまでもありません。
総括:悩み続け、深く考える姿勢こそが介護サービスの質を向上させる鍵である
これは利用者様のためにどうすべきかを真剣に悩んだ状況の一例です。
施設での介護において、Tさんのケースのように「帰りたい」と自宅に帰ることへの強い願いを示すことは決して珍しくはありません。一方で、ご家族様は施設で落ち着いて過ごしてほしいと願い、同時に職員への負担の調整も重要な課題です。このような状況で、職員の間で対応方針に意見が分かれることもありますが、私たちは改めて①「利用者様にとって最善の方法を真摯に模索し続ける姿勢が、何よりも大切」であると痛感しました。
また、私たちはこのケースを通じて二つの視点の間で深く悩みました。一つは、利用者様中心の考え方であり、利用者様の立場に立ち、個別化されたケアを尊重する姿勢です。利用者様の尊厳を守るためには、その声に耳を傾け、ニーズに応えることが不可欠です。しかし、もう一つは、職員の配置や施設の物理的な制約という現実的な問題です。特にTさんのケースでは、安全確保の観点から施設の構造や職員の配置に限界があり、その間をどのように調整していくかが大きな課題となりました。こうした難題に直面しながらも、私たちは幾度となく夜に職員を集めて議論を重ねましたが、残念ながら今回のケースでは、内部での葛藤や努力を十分にご家族様へ伝えることができませんでした。この経験から、②「ご家族様や関係者との緊密なコミュニケーションを図り、情報共有と相互理解を深めること」の重要性を改めて認識しました。
このように、私たち介護従事者は、利用者様の尊厳を守りつつ、安全確保という現実的な制約の狭間で常に悩み、最善策を模索し続けています。たとえご家族様との信頼関係が揺らぐような困難な状況にあっても、③「利用者様のために最善を尽くすという揺るぎない信念を持ち続けること」が不可欠です。Tさんのケースでも、お薬の調整やご家族様との協力体制の構築に努め、多角的なアプローチを試みました。このような絶え間ない努力こそが、質の高い介護サービスを実現する礎であると考えています。
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